自分の醜さを認めて受けいれることでありのままの自分で生きられます⑤

前回からの続きです。それにしても、このお題の連載がだいぶ長くなってしまいましたね・・・。今日でまとめられることを願って書いていきます。

”自分の醜さ”と言われてもピンとこない人がほとんどではないのかなと、前に書きました。そうです、ほとどの人は気が付きません。

私も嫌と言うほど、気が付かない人達に手のひらを返されてきました。特に女性に多かったです。

私の経験から書くと、私が手のひらを返された女性達にどう思われていたかと言うと

「小柴さんは、私の話は全部聞いてくれる人」
「小柴さんは、私の頼みごとを全部きいてくれる人」
「小柴さんは、誕生日プレゼントを私にくれる人」

こういうふうに思われていたと思います。まさしく、

”自分にとって超都合のイイ人!”

しかし、私も彼女たちの奴隷ではないので、全て彼女たちの思い通りに動くわけがありません。全ての要求をのむのは不可能です。

こういう私の態度が彼女たちに伝わった時に、手の平を返すのです。自分勝手な期待をこちらにしといて、その期待を裏切った時に

「そんな人だとは思わなかった!」

と、自分は被害者のポジションを取り、こちらを責めてくるのです。全くもって呆れてものも言えませんね。

自分にとって”都合のイイ人”に、自分の欲求をあからさまに期待しといて、少しでも”都合のイイ人”が自分の思惑と違う行動をとれば、裏切られた!という被害者になる。

どこまでいっても自分は悪くない。こういう人がほとんどではないでしょうか。

私の事を都合よく使おうとしていた自分のやましさ、あつかましさ、醜さに目を向けることはしないんでしょうね。

そして、気付くことも決してないんでしょうね。

しかし、そういうどこまでいっても気付かない人達は横に置いといて、極まれに”自分の醜さ”に気付き向き合って苦しんでいる人達に、次回は楽になる思考方法を書いていきたいと思います。

愚痴聞き 電話 話相手 優しさの森  小柴将